Category: 異国の料理エッセイ

チベット料理屋の夜

昨日、友人とチベット料理屋に行った。店に入っても、誰もこちらを見ない。声もかからない。案内もない。ニューヨークでは、良い店に入ったときほど、たまにこういうことがある。こちらが客であることを、店がまだ承認していない。私はしばらく入口付近で立ち尽くし、どこかから声がするので覗くと、先に来ていた友人が座っていた。「おっす」という感じで、私はそのまま席についた。

ガブガブ飲む生活がしたいだけなのに

Firstleafが届く。スワイプでワインを選ぶサブスク。送られてくる箱を開ける前から、なんとなく分かってる——これはオレンジワイン専門のブルックリンのナチュラルワイン屋の箱じゃない。アメリカ全土を横断する、郊外の夕食アップグレード箱だ。

ニューヨークのイタリアンについて考えるとき

 アメリカのイタリア料理を見ると、ときどき日本の寿司とカリフォルニアロールの関係を思い出す。
本場の人から見たら、たぶん「これは寿司じゃない」と言いたくなるような、あの少しずれた感じ。アメリカのイタリアンにも、ときどきそれに近いものを感じる。けれど、少し違うのは、イタリア系アメリカ料理の多くが、外からの勘違いや単なるアレンジだけで生まれたものではなく、実際にイタリアから渡ってきた移民たちの生活の中で形を変えていったものだということだ。

私とあなたとイカスミと

突然だが、今までにイカスミ料理を食べたことはあるだろうか?

私は今までに数回しか食べたことがなかった。子どもの頃、大学生の頃、渡米してすぐの頃、そして2023年5月5日の夕方―――――
私は久しぶりにイカスミ料理を食べ、恋に落ちた。「恋に落ちる」とはいったい誰が言いだした表現なのだろうか。「恋に落ちる」。まさに恋と呼ぶにふさわしい心高鳴る衝撃と、落ちるという表現の何ものでもない力強い浮遊感。私はまぎれもなくイカスミと恋に落ちたのだ。