先日、友人とチベット料理屋に行った。

 店に入っても、誰もこちらを見ない。声もかからない。案内もない。ニューヨークでは、良い店に入ったときほど、たまにこういうことがある。こちらが客であることを、店がまだ承認していない。私はしばらく入口付近で立ち尽くす。ふと、どこかから声がするので近くのテーブルを覗くと、先に来ていた友人たちが座っていた。「おっす」という感じで、私はそのまま席についた。

 メニューを見る。酒の欄には、しがないワインの名前が並んでいる。ああ、ここは酒の店ではないのだな、と思う。まあチベットだしね。とはいえ飲みたいので店員を探す。いない。誰もいない。

 ただ、近くの席に、黙々と料理を食べているアジア人がいた。客か?客……だよな?と思っていると、その人がこちらの気配に気づき、店員を呼んでくれた。若い女の子がやってくる。チベットの人なのか、ヒマラヤやこのあたりの山のどこかにルーツがある人なのか、私にはわからない。ただ、この店の空気にはとても自然に馴染んでいた。

 ワインを頼もうとすると、彼女は言った。

「ここに書いてあるの、全部ない。ビールしかないの」

 そうか。そうか。ならビールでいいよ。

 あらためてメニューを見ると、そこには本当に普通のビールしかなかった。ハイネケン、バドワイザー、コロナ、ステラ。おーおー、いいぞいいぞ、こういう感じね。じゃあハイネケンで。

 ビールを何本か頼み、料理もあれこれ注文しようとする。しかし途中で、彼女は「覚えられない」と言って紙を取りに戻った。いいね。しばらくして戻ってきて、注文タイムが再開される。こういう店では、注文という行為にも、少しだけ客側の協力が必要になる。

 やがてハイネケンと、氷の入ったグラスが置かれた。ビールに氷。おーおー、それがデフォルトね。いいねぇ、それがあなたたちの思うサービス。いいよ、そうしよう。氷の入ったグラスにハイネケンを注いで、仲間と雑談する。少しだけ、グラスに何かの味がする気もする。でも、それも味だ。店で出てくるものには、店の味がする。ふと店員の手のひらが目に入った。真っ赤だった。怪我なのか、粉なのか、液体なのか、何かの調味料なのか、わからなかった。その赤い手でグラスを運び、注文を取り、店の中を歩いている。なんだろう。でもまあいいか。

 店内にはチベットの原風景の写真が飾られていた。大きな仏教施設。馬に乗る人。山。模様。教祖のような人の肖像。けれど流れている音楽は、アメリカやアジアのポップスだった。しばらくして、竹内まりやが聞こえてきた。あ、竹内まりやだ。いいねぇ、この感じ。チベットの写真の下で、氷入りのハイネケンを飲みながら、竹内まりやを聞く。ニューヨークでは、こういう組み合わせが何の説明もなく成立する。

 料理が運ばれてくる。

 皿は普通だった。というより、どこかの99セントショップで買ったような大量生産の皿だった。味噌汁の椀のようなプラスチックの器もある。そこに、白いバンズ、白い芋、白い発酵乳の匂いがする餅のようなものが並べられている。

 白い。

 赤いメニューもあったはずなのに、今回ちょっと白いものを頼みすぎたらしい。まあいいか。

 食べる。芋。肉まんの皮の部分だけを大きくしたような塊。ヤギの乳のような、甘くて酸っぱいような、よくわからない白いもの。何だこれは、と思う。何だこれは、と思いながら、うまい。そして、人生の味がする。

 しばらくして、大きなパイのようなものがテーブルに置かれた。茶色い何か。真ん中を開けると、中には肉と野菜が入っている。知らない国の匂いがした。なんだろう、この匂い。うまそう。そして、美味かった。懐かしいような、全然知らないような、でもどこか家庭の気配を含んだ味だった。

 食べながら、これは本当は羊の肉か、何か別の肉で作る料理なのではないかと思った。スパイスと肉の関係に、その気配があった。でもメニューでは、チキン、ポーク、ビーフから選ぶことになっている。選べる種類が、ちょっとニューヨークナイズされてないか?羊があるなら、羊にしたよ私は。本場がどうなのかは知らない。ただ、知らない料理がニューヨークに到着して、ここで生き延びるために少し形を変えている。その気配があった。

 客は意外と入ってくる。みんな静かに食べる。隣のテーブルに座った異国のおばちゃん二人組は、何も言わずに私たちのテーブルにある香辛料を使っていた。私たちも何も言わず、そのまま話に花を咲かせた。

 ふと見ると、店員の手のひらが、いつの間にか普通の色に戻っていた。あの赤さは、もうどこにもなかった。

 そのうちに、誰もかもがいなくなった。気がつくと、閉店が近い時間になっていた。

 会計を頼むと、あの若い女の子が伝票を持ってきた。カードを渡す。しばらくして、彼女は戻ってきて言った。

「ねぇ、ビール何本飲んだっけ?」

 私たちは顔を見合わせた。

「さあ、いっぱい飲んだけど、知らない」

 彼女は少し考えて、「そう、まあいいわ」と言った。そして、たった四本分のビールの値段をつけて決済を済ませた。

 私たちは母国語で、「俺は少なくとも四本は飲んだ」「私は二本」「俺は……」と話し始めた。けれど誰も申告しなかった。かわりに、少しだけチップを多めに書いた。

 外に出た瞬間、ジャクソンハイツの夜だった。

 人間の熱気が道を流れている。知らない言語。知らない音楽。ハラルフードのカートに貼られたドラゴンボールのステッカー。チベットモバイルと書かれた看板。大陸の人々の、力強い黒い瞳。

 そのざわめきの中を歩く。誰も、その店について大げさに語らなかった。ただ、お互いに満足げな顔をしていた。

 駅の改札の前で、友人たちと別れる。

「それじゃあ、また」

 それだけ言って、それぞれの帰路についた。氷の入ったビールと、白い芋と、知らない国の匂いを、少しだけ身体に残したまま。

 
 
 

訪れた店:Khampa Kitchen
場所:Jackson Heights, Queens
メモ:ビールは氷入りのグラスで出てきた