突然だが、今までにイカスミ料理を食べたことはあるだろうか?

私は今までに数回しか食べたことがなかった。子どもの頃、大学生の頃、渡米してすぐの頃、そして2023年5月5日の夕方―――――
私は久しぶりにイカスミ料理を食べ、恋に落ちた。「恋に落ちる」とはいったい誰が言いだした表現なのだろうか。「恋に落ちる」。まさに恋と呼ぶにふさわしい心の高鳴り、そして “落ちる” という表現以外の何ものでもない力強い浮遊感と引力。私はまぎれもなくイカスミと恋に落ちたのだ。

そのイカスミ料理との出会いはロングアイランドシティにあるペルー料理屋でのこと。
出会いというものはいつも突然である。完全なる不意打ち。仕事を終え、一杯ビールを飲みながらうまい肉を食べたい。そんなよくある平凡な動機で偶然立ち寄ったペルー料理店「The Inkan」。私はこの店でイカスミ料理の概念を更新し、「イカスミを知りたい、イカスミの世界を深めたい、世界の様々なイカスミ料理を食べてみたい」と噛みしめることになるのであった。

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The Inkan
4502 23rd St, Queens, NY 11101
https://www.theinkanrestaurants.com/
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実のところ、メニューを見ても料理の全容はよく分からなかった。そのため「肉がたべたい」「サーモンが食べたい」などと食材を伝えて注文してしまい、私は一体何という名の料理を食べたのかよく分からないのだ。店員のお姉様も母国語訛りの英語で、ほとんど何を言っているのかわからず、ただ出てきた料理を食べるだけのデクノボウになった。
たまにはそんな日も良いだろう。しかしこの日は残念なことに一眼レフカメラすら持っていなかった。完全に油断していたのだ。とりあえず5年前から愛用している小汚いスマートフォンで記録写真は撮っておいたが、あの素晴らしい料理たちの美味しさが伝わらないどころか、そのひどい画像で美食に対しての想像障害を引き起こす可能性がある。そのため今回は写真の掲載を遠慮させて頂くことにする。

さて、おそらくメニューを読み返す限りでは

・Palta Rellena
・Entrana muy fina
・Salmon al estilo del chef

あたりだと思われる。これらどれも美味しかった。
Palta Rellena は前菜。エビとアボカドとキヌアを使った冷たい前菜料理だった。
Entrana muy fina は肉料理。しかしこの肉料理の付け合わせに、コリアンダーをふんだんに使ったコリアンダーライスがついていた。これがまた素晴らしく美味かった。今まで食べたどんなコリアンダーよりも強い。とにかく強烈にコリアンダー。コリアンダー好きが目を剥いて驚くほどの圧倒的コリアンダー。コリアンダーのためのコリアンダーによるコリアンダーライス。まさにそんな感じだ。これを食べるために私はもう一度この店に立ち寄っても良いと思った。ここまででも十分な満足度だったが、しかしトドメがきたのだ。サーモン。それしか私は言わなかった。それなのに、そこにいるのはイカスミだった。

真っ黒いイカスミ。その上にサーモンが置いてあった。ただそれだけだ。
もう少し詳細を述べれば、イカスミそのもだと思ったのはイカスミのリゾットだった。しかしそれは米ではなくキヌアだった。完全に100%キヌア。米やパスタにキヌアが混ざっているなんてことはない。真っ黒いキヌアの山。私はイカスミのリゾットだと思い、一口それを口にした。しかしそれはリゾットではなかった。私は今までに数回しかイカスミ料理を食べたことがない素人だ。そのためイカスミ料理の知識量は少ない。イカスミパスタといえば、基本的にトマトソースではなかっただろうか。しかしこれはトマトソースではなかった。完全にチーズ。いやまるでドリアのような味わい深いものだった。

真っ黒い、キヌアの、ドリア―――――

私の脳みそに電流が走る。非常に面白い。最高に美味い。
さて、それではサーモンはどうか。
私は真っ黒い宝石と共に焼いたサーモンを口に運ぶ。

それは、トマトだった。

私の脳みそが急回転する。天才か。そうだ、そうに違いない。
このシェフは誰だ。面白い。非常に論理的思考の持ち主に違いない。
そんなことを考えた。

少なくとも、私のイカスミ料理に対する経験の少なさがそう思わせただけかもしれない。しかし私が持っていたイカスミの概念を完全に打ち砕いたのだ。イカスミとトマト。この鉄板の組み合わせを崩し、トマトをあえてサーモンの味付けに使う。イカスミ料理を分解し、食材とソースを分解し、再構築している。新しい驚きと発見。そして口の中で混ざり合ったとき、完璧な料理となる。まさにそれを体現している。拍手喝采だ。

一緒に料理を食べた同僚たちと、私はこの素晴らしい料理を分かち合った。ひとりは初めてイカスミ料理を食べたという。この料理が初めてのイカスミ料理だなんて、なんて幸せ者だろうか。もうひとりは私と同じように、以前何度かイカスミ料理を食べたことはあるらしいが、この料理を大変気に入ったようだ。気分が良くなったためかなかなかに調子の良い話を始める。彼が何かを話すたび、真っ黒い歯がヌメッとのぞく。どこかで見た事がある顔だ。映画か何かで見たことがある。ああそうだ、戦場で爆撃を受けた後、顔や全身がススで真っ黒になるだろう?まさにそんな感じだ。戦場にいる兵士の顔だ、そう思った。
たまには歯や唇を真っ黒にしながら話をするのも悪くない。しかしデートにはオススメしない。なかなかに衝撃的な表情になるので要注意だ。それ以外だったらいいだろう。お互い戦場にいる友のようにより親密になるはずだ。

私はこのイカスミ料理に出会い、イカスミに火がついてしまった。イカスミとはそもそも何なのか。なぜ世のシェフたちはイカスミを使って料理を作るのか。この先じっくりと思いを馳せていきたいと思う。もし美味しいイカスミの店を見つけたらぜひ報告して欲しい。何ならあなたと戦友になっても構わないと思っている。

(執筆・写真:by June)